原研哉「デザインのデザイン」

「欲望のエデュケーション」の話が面白かった。

今日、市場にある顧客の欲望や希求はマーケティングによって高精度に「スキャン」されている。(……)今日本で売られているクルマは、「日本人の自動車に対する欲望」を何度も何度もスキャンし続け、その結果を製品に反映し、リ・プロダクトを続けてきた成果だ。
(……)日本のクルマは日本人のクルマに対する欲望の水準そのものである。

センスの悪い国で精密なマーケティングをやればセンスの悪い商品が作られ、その国では良く売れる。(……)センスの悪い国にセンスのいい国の商品が入ってきた場合、センスの悪い国の人々は入ってきた商品に触発されて目覚め、よそから来た商品に欲望を抱くだろう。しかしこの逆は起こらない。ここでいう「センスのよさ」とは、それを持たない商品と比較した場合に、一方が啓発姓を持ち他を駆逐していく力のことである。
(……)問題はいかにマーケティングを精密に行うかということではない。その企業がフランチャイズとしている市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを同時に意識し、ここに戦略を持たないと、グローバルに見てその企業の商品が優位に展開することはない。これが問題なのである。ブランドは架空にできあがるものではなく、やはりそのフランチャイズとなる国や文化の水準を反映している。

住宅事情の悪さを日本人は宅地価格の高さのせいにしたがるが、そうではない。住空間に対する美意識が成熟していないのである。つまり欲望の水準が低い。
(……)庶民が住居空間について学習する教材は、不動産業者が新聞に折り込むチラシである。(……)そういう不動産チラシが「リファレンス効果」を生み、欲望はいびつな形を与えられたまま一般化していくのである。
(……)これはネガティブな方向に向いた「負の欲望のエデュケーション」の一例である。こういうマーケティングを繰り返せば繰り返すほど、日本の家、そしてその集積としての街はその水準を下げていくだろう。

日本の一億三千万人のマーケットは、グローバリズムとの攻防においては、「日本語」という防波堤で守られている。英語の不得意さが幸いして、日本市場は不思議なオリジナリティを維持している。この独自な市場における欲望の質を肥やしていくことが、収穫物の品質を向上させ、グローバルなステージでの日本の競争力を引き上げていくことに繋がるはずだ。デザインという営みは長い目で見て、そういう局面で働けるだろうと考えるのである。